選択

投稿日:2013年3月11日

人生には、選択できるものと選択できないものがあります。

自分が決定することは、選択できるものです。

自分に決定ができないものもたくさんあります。その最たるものは自然災害です。2年前、2月に起こったクライスト・チャーチでの地震。3月に東日本で起こった地震と津波。そして、その後現在に至るまでの2年間、ヨーロッパやアメリカの寒波。オーストラリアの洪水や山火事。様々な場所での地震。多くの場所での竜巻や洪水。自然の猛威による爪あとは数え切れません。

自然が猛威を振るうとき、人間は、ただそれにひれ伏すしかありません。多分、人間が地上に誕生して以来、ずっと、それを続けてきたのでしょう。そのうちに科学の進歩により、人間がそれをコントロールできるのではないかなどと思うまでに驕り、ありとあらゆる予防措置を取り、気象そのものすらも変えようという試みまであります。

科学技術と人間の頭脳とが自然とのたたかいと競争しているようにも見えます。でも、自然の猛威には、ひとたまりもないことを歴史は証明してきています。

自然現象の中で命を落とされる方々。命は助かったもののそれまでの生活の継続の断絶を余儀なくされる方々。近しい方々を亡くされる方々。蓄積してきた財産を失われる方々。その中には、一層の事、命を奪われたほうが良かったと思われる方もあるかもしれません。その一方で、命があったことに感謝し、なお一層生きる意味を感じられる方もおられましょう。いずれにしても、自分の選択ではないところで起こったできごとです。自然災害であれば、誰を責めることもできず、ひたすら、その運命を受け止め、新たな出発をするしかありません。だからこそ、周りは、できるだけのことをしてあげたいと願い尽力します。

東日本の地震と津波は、人災を伴いました。人が、政府が、かつて原発を造ると選択した結果によって起こったことです。意図的な選択の結果に、自然災害が伴ったものです。この2年間にいろいろな決定がなされています。それは、すべて、意図と目的を持った選択による決定です。

 私たちは、決定し、実行することで前に進んでいきます。政府もそうです。政府は、戦争をするかしないかということまで決定しますが、それは、すべて、意図のあるものです。

選択があることは、時には、とてもありがたいことです。しかしながら、あまりにも自由があり、選択肢が広がると、人間は時に迷うことが多々あります。何を選択すればいいのか。どこに選択の軸を置けばいいのか。例えば、原発の再稼動においては、エネルギー確保が軸か。利権が軸か。地域に落ちるお金が軸か。雇用の拡充が軸か。それとも、人々の絶対的な安全が軸か・・・

誰が何に重きを置いて決定するかで結果は大きく違いましょう。

私たち個人の選択も同じです。

先週と今週、何人もの卒業生の訪問に恵まれました。本当に嬉しいだけでなく、とても、ありがたいことです。彼らの中心に流れているテーマは、「選択」です。自ら考え、悩み、また考え、「選択」することを決定したからこそ、今日の時点において、「自分の選択に本当に満足」「本当に幸せ」と言い切って、今日の、この大切な日を迎え、送ることができています。

その選択は、自分をしっかりと見つめ、自分を知り、自分の未来像を考え、ビジョンを持ち、こういう人間として生きていきたいというしっかりとした目的意識の上に立ってなされた選択だからです。

名前で、あるいは、表面的な価値で、あるいは、評判で、あるいは、他者からの期待で、あるいは、自分の体裁で、あるいは、他者からの薦めで、あるいは、無知で、あるいは、反応して、あるいは、意味の無い願望で、毎日の自分の行動や次にすることを選択していたらどうでしょうか?

彼らが、無限の自由という多岐に渡る選択肢の中で毎日の選択に臨む軸は、そこに目的と理由とビジョンを見出すことができるかどうかということです。そして、それが、自分の生き方として、自分の価値観にもっとも沿うものだと感じることができるものだからこそ、自分に幸せをもたらすことができているのでしょう。

自然災害に遭われた方々に、私たちは、何ができるでしょう?

災害という突発時ではなく、何気ない日常の中で、同じコミュニティの一員として、誠意を持って周りの人々に接することに徹したら、選択の無いところで災難に見舞われた方々へのお見舞い、そして、命を落とされた方々へのせめともの供養になるのではと思う3月11日です。

 

 

 

 

 

 

 

コメントをどうぞ

お名前(必須)

メールアドレス(必須)

URL

ブログトップへ戻る