エネルギーの向くところ
投稿日:2013年3月23日
人間は、エネルギーのかたまりです。
そのエネルギー(気、活力)をどこにどれだけ向けるか、そして、何を軸にするかで、私たちの生活はまったく違ってきます。
生活が違えば、人生そのものも違ってきます。
家庭、仕事、同僚との人間関係、スポーツ、学校の勉強、筋トレ、食事と健康、美容、おしゃれ、整理整頓、なんでもいいのですが、自分の時間とエネルギーを注入するところが、その人が得意とするものになっていきます。
お掃除が大好きな友人がいます。きれいになった時の気持ちよさがなんとも言えないのだそうです。彼女のお家はいつもきれいに片付き、とてもすてきな雰囲気に保たれています。
早朝に10キロ走る生徒がいました。走り終わった後の爽快さが、なんともいえなくいい気持ちなのだと言います。彼は、優秀なマラソン走者でした。
食べ物が大好きな友人がいます。健康に役立つと考えるといい気持ちだし、すべてがおいしく食べられ食事をするたびに幸せな気持ちになると言います。仕事中にも、時間があれば、食べ物のことを考えているそうです。有機野菜を自分の畑で栽培し、お料理の研究をし、何十年も医者にかかったことがないほどの健康を維持しています。いつも活力と幸せな笑顔に溢れています。
私の知人に、司法試験に9回挑戦した人がいます。彼の夢は、弁護士になって社会の底辺にいる弱い立場の人々を助けるというものでした。試験に失敗するたびに、夢を捨てて別の仕事を探すよう両親から諭されました。でも、彼は、その夢を捨てず、両親に借金して勉学に励みました。やがて、付き合い始めた女性が彼を支援し始めました。今度こそはと臨む試験に毎年失敗し、周りは、徐々に、彼をクレイジーだと呼ぶようになりました。それでも、彼は、自分の夢にしがみつきました。パートナーの女性も、彼のエネルギーに自分のエネルギーを重ねました。
9年目、彼は、司法試験に受かりました。それから、何十年経ったでしょう。彼はその地方の名士であり、奥さんも、法とのたたかいはあっても、自分たちの気持ちは、毎日、とても澄み切ったいいものだと言います。毎日、人々と一緒に、人々のために役に立つことができることが人生の最高の喜びであり、それができることに感謝し、自分たちが幸せであることに感謝している、と言います。
あの9年間は、自分たちとのたたかいだった。でも、自分たちの未来を信じることで、自分たちの絆も深くなったし、そこに向けて努力することが、他の何よりも私たちを幸せにすることだった、とも言います。
いろいろな例をあげました。何を言いたいかということ、人は、最終的には、自分が、「気持ちがいい」「心地よく感じる」ことにエネルギーを注入するということです。それも、とても良いエネルギーを。だから、そこからかもし出されるエネルギーも気持ちよいものとなります。社会に良いエネルギーが注入されます。
自分が責任を持っていること、期待されていること、自分の好みに関わらず仕事として選んだこと、自分がしなければならない勉強など、私たちは、社会の中で必ずしも、「気持ちがよくなる」ことだけをしていられるとは限りません。「気持ちのよさ」や「幸せ」という感覚をあまりに長い間感じないままに強いられたものを続けると、病気になったり、怒りを感じるようになったり、責任を放置してしまったり、とんでもない爆発を引き起こしてしまったりします。
学校であれば、無言の抵抗であったり、不登校であったり、いじめであったり、学内暴力であったり、先生への反抗であったり、先生の生徒への権力乱用であったり、先生の精神的病いだったり、と、社会に戻るエネルギーは、決していいものではありません。
子どもたちの学習は、生徒がどこにエネルギーを向けるかは、最終的には、子どもたち自身の判断にゆだねられています。「英語を学びたい」「英語の上手になりたい」と言っても、ホストに2ヶ月も自ら話しかけることを一度もしていないということになると、エネルギーは、「英語に上手になりたい」というところには向けられていないことは明白です。恐らく、「間違ったらどうしよう」「文法が正しいかどうかわからない」「言ってもわかってもらえなかったらどうしよう」と自分に呪文をかけるほうにエネルギーは使われているのでしょう。
自分のエネルギーが、自分が「心地よく」「気持ちよく」感じられるところに注入されているのであれば、その先には、きっと良い結果が待っていることでしょう。一度しかない人生、気持ちよく生きたいですね。