復活祭に思うこと
投稿日:2013年3月30日
オーストラリアには、年に3回、すべての店が閉まることがあります。
文字通り、店という店すべてです。
そのうちの2回は、この復活祭の金曜日と日曜日。もう1回はクリスマスの日です。
キリストの死と復活を祝うイースターは、キリスト教徒にとっては、キリストの誕生を祝うクリスマスと並ぶ大きな行事です。バチカンはもとより、キリスト教徒が国の人口の大半を占める国では、たくさんの儀式が行われます。
私が4年半住んだメキシコは、キリスト教が支配する国なので、聖週間と呼ばれるこの時期は、敬虔な祈りと、それとは逆にお祭りのような気分に包まれる時でした。教会という教会は人でいっぱいになり、地方の町ではキリストが十字架を担いで苦しみながら歩く様子を再現したり、教会の庭の石畳を膝から血を流しながら膝で歩いている人の姿もたくさん見かけたものでした。
オーストラリアも、キリスト教徒の多い国です。Easterには、学校も企業もすべてが休みになり、店という店が閉まることからもその重要性が感じられます。Sky Newsというニュース報道で以前アンケートが実施され、85%の人々が、この時期に宗教的な意義を考え、また、「死と生」について考えるという結果が出たということでした。その数の多さやオーストラリアの人々の持っている感覚に改めて驚きました。
私は、キリスト教徒ではありませんが、大学における2年間必須だった宗教学の時間に始まり、キリスト教について多少なりとも学ぶ機会がありました。学べば学ぶほどわからなくなるのですが、ひとつだけ言えることは、キリスト教をはじめ、イスラム教、仏教、ユダヤ教などの大きな宗教の歴史をある程度学ばなければ、世界のことを理解できないということです。だから、これから世界に出ていく現在留学中の生徒たちにとっては、Easterはそうした宗教的な行事や歴史について学ぶよいきっかけです。
生徒のこの4日間は、お世話になっているホストファミリーによって、過ごし方が大分違うことが予想されます。Easterについて、ホストにいろいろ尋ねたり、調べてみたり、本を読んでみたりする良い機会でもあります。
「今日をどう生きるか」と言うテーマの哲学書などによく出てくる質問に、「もし今日があなたの最後の日なら、何をしますか? どう1日を過ごしますか」というのがあります。
「死」について公に語るのは、なんとなくタブーな感じがあり躊躇われるのですが、死があることで、生が鮮明に浮かび上がってきます。何のための命か、どう生きるのか、ということが。
物理的な死でなくても、物事が新たに誕生するメタフォーとしても、何か新しいことを創造しまったく新たな世界に飛び込むためには、それまでの積み上げややり方を全部捨て去ることを求められることがあります。
人間には、いつか、「終焉」が来ます。現在では、DNAを調べると、いつ死ぬかということもわかるということですが、死がいつ来るかわからない私たちは、日常、そうしたことを考えることもなく、何かに到達するために、わけもなく忙しい毎日を送っています。
自分の生が永遠にあると思うから、そして、明日も同じ時間があるとわかっているから、毎日の生活をなんとなく送ってしまったり、目的意識を持たなかったり、適当に生きていても、そのことに意識を向けることがありません。でも、続くものが明日にはなかったら、今日をどう生きるか、今日何をするのか、今日の自分がどうあるべきか、ということは、極めて大事なこととして浮き上がってきます。
今日の自分が最高という日を毎日送ったらどんなでしょう?
世の中には、今この瞬間に、飢えで、戦争で、犯罪で命を落としている人がたくさんいます。世の中には、夢を持てない人々がたくさんいます。その夢が叶わないことがわかっているからです。この記事が読める状態にある方々は、みなさんとても恵まれた生活を送ることができている方々です。生徒たちは、留学というとてつなくすばらしい機会を与えられています。そして、夢を実現できる可能性に満ちた世界にいます。自分の努力次第で・・
最高の輝きを出すのは今日です。明日ではなく、今日。明日は、今日以上の輝きが出せる1日であって欲しいと思うのです。今日輝いていたら、未来に輝かないはずがありません。でも、今日輝けないなら、1年後に輝くという保証はどこにもありません。
大きな夢、大きな理想に向けて今日をしっかりと最高な形で歩む。今日は、そんなことを考える日でした。