Dr. Dunlop

投稿日:2013年5月2日

留学のひとつの側面は、新しい情報に触れるということです。

自国から外に出れば、自国では触れることのなかった情報に触れます。新しい知識として啓発されるものもあれば、知らないほうが良いものもあります。恐ろしく刺激的なものもあれば、害になるものもあります。課題は、情報の良し悪し、内容の意味、背景にあるものをどう見分け、どう解釈し、どう理解するかです。

大人には、子どもを護る義務があります。同時に、子どもを自立に導く義務もあります。子どもたちが安全であるように、小さな頃は、危険から子どもたちを遠ざけ、徐々に彼らが安全に行動できる範囲を広げていきます。子どもの行動範囲が広がれば広がるほど、護れる度合いも範囲も限られてきます。一人になった時に大きなブローを受けないためには、子ども自身が情報の内容が把握でき、きちんとした判断ができるための用意や準備の過程を経ていることが必須のこととなります。

日本の外に出た際には、出先の国の歴史や文化の中に培われてきている情報が氾濫しています。日本との親善度合いにより、情報の内容も様々に異なります。出逢う人々が良識を持った文化人であれば、相互の交流はとてもすてきなものとなります。一方で、出逢う人々が無知で偏見に満ちていれば、その出会いは、とても不快でいやなものとなり、偏った先入観を持つ結果となります。

これから日本だけではなく、世界という舞台で活躍していく若者たちは、日本では触れることのない情報がそこにはある、ということをまず知る必要があります。そして、他国の多くの人々が共有している情報をしっかりと把握することで自分の世界観を深くそして広くすることができます。特に、戦争という極めて悲惨なことを体験した人々・国において伝えられていく情報は、私たちが最初にどのようにそれに接するかで、その後の解釈や見解を大きく変えてしまいます。

良い悪いではなく、誰の責任であるとかないとかではなく、どちらの国が正しいか正しくないかという判断をするのではなく、まずは、情報があることを的確に知り、理解し、その上で、生徒一人一人が自分なりの解釈と理解を積んでいくことが大事です。今私たちが享受しているこのすばらしい親善関係を未来の世代が引き継ぐことができるようにするためには、日豪の間にあったことをしっかりと理解する必要があります。日豪の双方において戦争の傷を癒すための必死の人道的な努力をした人々のお陰であり、また、戦後から今に至るまで日本の外交官や商社マンの絶え間のない努力によって成り立っているものです。そして、留学生もまた、その意識を持って両国の親善に努めることが当然の義務となります。

若者が偏った先入観を持たないようにするためには、でも、同時にきちんとした歴史観を持てるようにするためには、どういう情報をどういう形で紹介していくかを考えることが、子どもを護る義務を持つ私たちの課題です。ICETでの学習は、人道的な視点を軸として情報に接し、その背景を考える機会を持つことです。

キャンベラへの旅は、そうしたことを実体験として理解するためのものです。

キャンベラでの最後の見学場所は、戦争記念館です。ドクター・ダンロップの彫像に迎えられました。このブログを読んでくださっている皆様は、「愛の鉄道」というビデオをご覧になったことがありますか? ぜひ、一度、ご覧になってください。日本の捕虜となったマーツデン神父やマーツデン神父の愛の教えを貫いたトニー・グレン神父の人道的な活動が、その後の日豪の関係を極めて良好にした様子がとてもよく描かれています。

ドクター・ダンロップも、そのお一人です。軍医として派遣され、日本軍の捕虜となりました。捕虜生活で病気や重労働でどんどんと死んでいく捕虜を助けるために大変な苦労をされ、また、悲惨な状況を目撃し、骨と皮だけになってわずかな数の兵士たちと帰国しました。

戦争で母国を護るという行為は、大儀があり目的があります。敵も見方もその精神は尊重することができます。しかしながら、捕虜を人道から外れた扱いをすることに対しては、反感と敵意しか生まれません。ジュネーブ条約に入っていたオーストラリアは、捕虜となった日本兵に十分な食事と余暇の自由を与えました。ジュネーブ条約に加盟していないだけでなく、先陣訓の教えから捕虜になることを恥辱と受け止めた日本の兵隊さんたちは、自らが捕虜になることを拒んだだけでなく、捕虜となることを受け入れた敵国の兵士たちを恥を知らぬ者として扱ってしまいました。十分な食糧も軍事支援もない中で、自らを保護できない日本の兵士たちは、敵国の捕虜を保護できる状態ではなかったことにも原因があるのでしょう。

(ちなみに、連合軍の捕虜となった日本の兵隊さんたちの「カウラ」における運命が日本で取り上げられるようになったのは、つい数年前からのことです。このできごとについては、また、後日、取り上げる機会があります。関心をお持ちの方には、土屋康夫著「カウラの風」をお勧めします。)

ドクター・ダンロップは、オーストラリアや英国の捕虜が強制労働に使われ多くの死者を出した泰緬鉄道(タイとビルマ)建設の場で、苦しむ人々を思うように助けられず、助けようとすれば拷問を受けるなどの苦難を体験しました。戦後、戦争捕虜の扱いの実態がわかるにつれ、日本そして日本人に対して激しい敵意と憎しみを募らせるオーストラリアの人々に、「日本人を憎む無かれ。悲しみや受けた苦しみは、みな同じである。」と説いて日豪の関係の復活に尽力した人物です。

この記念館には、10万2千人の従軍兵の名前が刻まれています。オーストラリアが戦争に送り出し、帰国することのなかった人々の名前全部です。

赤い花は、第一次大戦の荒野に咲いた最初の花、ケシの花が、戦場の露として消えた人々の魂を象徴しています。

 

右側の水面に映っている建物は、無名戦士の廟です。映すということに過去を瞑想する意味が重ねられています。

無名戦士の廟は、すべてモザイクでできていて、この天上の美しい紋様もモザイクでできています。きっといろいろな意味が込められているのでしょうが、私の勉強不足でその意味がわからないのが残念です。

 わずか4日間ですが、いろいろなことが詰まった旅でした。生徒たちにたくさんの収穫があったことを願っています。

昨日から2学期が始まりました。1年組みは、本格的な学習への取り組みが始まります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメントをどうぞ

お名前(必須)

メールアドレス(必須)

URL

ブログトップへ戻る