英語学習は、しがらみからの解放から始まる
投稿日:2013年6月4日
「落ちこぼれ」の続きです。
「大辞林」では、落ちこぼれとは、「教科の速度についていけない児童・生徒」と説明しています。
ウイキペディアには、「元々「落ちこぼれ」という言葉は存在していなかったが、不登校・引きこもりが増加し始めた際、主に週刊誌が用いた言葉である。よって、「落ちこぼれ」はマスメディアが作り出した言葉である。」と書いてあります。
私は、学校教育の中で頻繁に出てくるこの「落ちこぼれ」という言葉に強い抵抗を感じます。なぜなら、子どもたちは、みな、それぞれにいいところがあり、優れたところがあり、まだ発達していない面もあれば、とても発達している面もあり、誰も一様ではなく、みな、それぞれに違うので、落ちこぼれなんて、本来いないはずだからです。
「落ちこぼれ」という名前で、ある子を特定のカテゴリーに落とし、落ちこぼれではない自分たちは、ある一線の上にいる、という評価の仕方はまったく理解できないし、それこそ、そんな考え方に「ついていけない」からです。
さらに、「落ちこぼれ」なるものを出さない責任や義務が社会や大人にあると信じているからです。
英語には、「落ちこぼれ」という言葉がないことを御存知ですか? そんな概念もなければ、社会現象もないから、言葉がないのです。
人間は、評価・ジャッジされることを怖がります。それを怖がるのは、もっと怖いことがあるからです。それは、自分が受け入れてもらえないのではないか、という不安です。拒絶されないために、嫌われないために、そして、受け入れてもらうために、人間は、様々なことをします。
自分を偽ったり、本意に反して他者に同調したり、おべっかを使ったり、自分の価値観を崩壊したり・・・
優越感をひけらかしたり、劣等感に陥ったり、ナルシストになったり、嫌悪感でいっぱいになったり、人を蹴落としたり、非難したり、責任転嫁したり、人や自分をいじめたり・・・
それをずっと続けて、疲弊し切ってしまったり、自分が誰かもわからなくなったり、病気になったり・・・
一体、誰のために? 自分自身が受け入れてもらうために、病気にまでなってしまうなんて。
この受け入れてもらうための試みは、集団生活が始まったその日から始まるのでしょうが、まだお互いが自意識にも他者との関連にもそれほど目覚めていない時期には試みる必要はなく、自意識が発達すればするほど、そして、他者との関連性を理解するようになればなるほど、試みの度合いも深さを増していきます。
学校だけでなく、職場でも、PTAの中でも、社宅のアパートでも、巨大なマンション群の中でも、団体や組織があるところでは、何歳になってもこの試みが続きます。
小・中学校の年齢の非常に柔らかく繊細な子どもたちの心は、この試みのために、大変な火傷を負ってしまうことがあります。そうなると、心は、不安な情動に支配されてしまいます。友達だけでなく、親子の関係もそうです。親は愛情を注いでいるつもりでも、子どもが親から疎外されているように感じると、これも、学習は二の次、三の次になります。
高校生が何よりも気を使うことは、この人間関係の微妙なバランスです。勉強は、その基盤がある程度安定して初めて成りたちます。ICETの生徒の場合にも然りです。彼らの場合には、その上に、ホストファミリーとの関係も追加されます。
ここでの学習は、どこまで達したかではなく、どこまで積み上げたか、そのための努力をどれだけしたか、で評価されます。誰もが同じチャンスを持っています。1日24時間というチャンスです。それなのに、留学の初めで、すでにハンディのある生徒と無い生徒が分かれています。生徒がもっているハンディというのは、まだ、何も始まっていないのに、自分はダメだ、バカだと思い込んでしまっていることです。
日本の高校生の7割までが落ちこぼれになっているのであれば、日本中の7割の若者たちが、そのハンディを心に背負っているということです。なんという不幸でしょう!
英語学習は、まず、このしがらみ、不安、恐れ、思い込みの開放から始まります。先日、お話した、文法という枠からの解放もそのひとつですが、心の解放がなぜ英語学習に必要なのかというと、その解放があって初めてコミュニケーションが上手に行くからです。そして、英語学習は、特に、「生きた英語」とか、「使える英語」、「話せる英語」と呼ばれるCommunicative Englishの習得は、コミュニケーション能力を伸ばすこと、そのものだからです。