共有地の悲劇

投稿日:2013年7月29日

11年生たちが元気でスキーキャンプから帰ってきました。

とても楽しかったとのこと。また、ゆっくりと話を聞かせてもらいましょう。記事が送られてくるといいですね。

今日のCAPDでは、2004年制作のNHKの特集番組のひとつ「海から魚が消えていく」というテーマのビデオをみて、そこからいろいろなことを考えていきました。

イギリス周辺の海での漁獲の最大量は1950年代。漁獲量が徐々に減り、同時に、漁をする場所は、1960代から徐々に南に下がり、1980年代には、アフリカ沿岸の海にと移動していく様子が、如実にわかります。消費するのは、主に西ヨーロッパの人々と日本(最近では中国も)。今では、そのアフリカ沿岸の魚の漁獲も減少しています。

ヨーロッパの消費者が喜んで買うので、魚の値段があがり、アフリカの住民は、それまで豊富に食べられた魚を食卓に乗せることができなくなってしまいました。セネガルなどの貧しい国は、排他的水域である200海里の権利をヨーロッパに売ってしまい、結果は、国民の食が確保できないというひどい状態にあります。

日本は、世界の漁獲量の10%を消費しています。日本の人口は、1億7千万くらいですので、私の計算が間違っていなければ、地球上のわずか2%そこそこの人口の人々が10%にも上る食料を食べてしまっているというとても不釣り合いな数字です。私たちは、こんなに強欲だったのでしょうか?

一人あたり年間63.8kg魚介類を食べている計算になるというのですが、とてつもない量で、到底、それだけの量を個人が食べているとは思えません。

おそらく、個人消費されているだけではなく、食料とは別の用途に使われているのか、あるいは、無駄にされてしまっているものがとても多いのではないかと思われます。日本が買い付けている量が、一人にするとそれだけの量になるということなのでしょう。

漁場を3年間休め、魚の生命量を回復させた秋田の鰰(ハタハタ)の例がありましたが、それは稀な例で、世界の海の魚は、枯渇しつつあります。私たちは、その状態をどうするのか、という深刻な問題を突きつけられています。共有に持つものから、個人個人の利を貪るために、全体として徐々に貧しくなっていく状態を「コモンズの悲劇」あるいは「共有地の悲劇」とギャレットハーディーは名付けましたが、その悲劇に私たちは、今直面しています。

魚もそう。アマゾンやインドネシアの熱帯雨林の伐採もそう。空気汚染もそう。気候変動もそう。そして、福島の放射線汚水もそう。なんとかしなければと思っても、万人が負担することで、なんとなくうやむやになってしまう。何をすべきなのか。何が’できるのか。一人一人に託されたものがあるはずです。

そんなことを考える時間でした。

 

 

 

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