夢は望んで始めて成るもの
投稿日:2013年9月6日
”If you don’t ask, you don’t get”
ガンジーの言葉です。
自らが望んで始めて得られるもの。望まなければ、そこには得たいことの対象は存在せず、得ることはできない。とでも解釈したらいいでしょうか。
夢もそうです。夢を描いてはじめて自分が行きたい方向が見えてきます。ああ、自分には無理と思った瞬間、その夢も方向性も消えていきます。
すべての挑戦に同じことが言えます。
やってみたいと思わなければ、何事も起こりません。
やってみても、中くらいの心意気、思い入れであれば、成就しないまま終わります。
成就しなければ、ほら、やっぱり、と自分のもともとのどうせダメになるという思いが強調されます。同じことが次にも繰り返されるでしょう。それが続けば、徐々に自分がダメだと信じてしまうようになります。
せっかく機会を作り出しても、あるいは、機会が目の前に現れても、自分の様々な状況に流され、そのうちに、そのうちに、と思っていれば、機会は自然に失せていきます。そして、さあ、これからと気持ちを新たにしても、その時はtoo lateです。その機会はもう過ぎてしまい、似たような機会はあっても、まったく同じ機会が巡ってくることはありません。なぜなら、私たちの時間は日々動いているからです。
やろうと思い、本気で当たっても、自分の望むことがすぐに手に入るとは限りません。望むものを手に入れば、それは、とても喜ばしいことです。勇気を振るったことも、挑戦し努力したことも報われ、そのことがさらに次の挑戦につながっていきます。
望むものに競争があり、それを手に入れられる人が限られている場合には、必ず、もれる人たちが出てきます。スポーツのような勝負事なら、最終勝利を得なかった人、チームが出てきます。ならば、手に入れられなかった人は、負けたことになるのか? 決して、そうではありません。そのひとつのことに関しては、望むものを得られなかったかもしれません。でも、それは、負けたということではないのです。なぜなら、それに踏み出す勇気を持った、それを得るための努力をした、という事実は、すでに大きな軌跡を自分の中に残しているからです。その軌跡こそが、長い人生の道のりでは一番大事なものとなります。
私たちは、往々にして結果だけを見てしまいがちです。そして、結果が出ないと、その過程全体があたかも無駄であったかのように、それを切り捨ててしまいがちです。本当は、その過程にもっと目を向け、その過程があったことを認識し、その過程を正当に評価することが必要です。何を得たかよりも、むしろ、何をしてきたか、というほうにずっと大きな意味があります。
何を得たかは、氷山の上、見えるところ。樹木の形、葉っぱ、花です。とても大事です。
何をしてきたかは、氷山の海面にある部分、樹木の根っこです。自分のすべてを支えている部分です。こちらが、最も大事な部分です。
この部分を肥やすのは、体験です。努力です。学習です。真剣な取り組みです。勇気です。跳躍です。リスクを冒す度胸です。人に見せるための演技ではなく、自分との真剣勝負です。
そして、これには、競争はありません。自分の心持ちひとつでできることです。自分の望むことに思い切り挑戦し、勇気を出して挑戦し、やってみる。そのことに無限大の意味があるのです。なぜならば、その一歩一歩が、究極の夢に、自分を一歩一歩近づけていくことになるからです。究極の夢=自分の望む人生を歩むこと、に確実に向かっているからです。
人からの評価、あるいは決められたシステムの中での目に見える達成という形でのボーナスがあれば、多いに喜ばしいことです。それがまた糧となるでしょう。でも、大事なことは、人が評価するボーナスがなかったとしても、自分がそれを正当に評価できるかどうかです。自分が一生懸命したことであれば、そして、その毎日の積み重ねがあれば、必ず、自分が納得できる、自分が満足できる、自分が幸せに思える自分の道が間違いなく作られていく結果となるからです。