兵隊さんを探して
投稿日:2013年9月24日
カウラの旅6
植樹を済ませて、日本人墓地に向かいました。
ここには、収容所脱走事件の際に亡くなった231人の兵隊さんと、ブーガンビリアなど戦地で亡くなられた無名戦士や、戦時中に病気や他の何らかの原因で亡くなられた一般人の方々など500人を超える方々の英霊が祀られています。カウラの人々が最初に作ってくださったお墓です。日本のご家族は、この兵隊さんたちがここに祀られているということは、ご存知ないのです。南の地で「戦死」したという報告以外には。
ここには、平穏な毎日の中で起こった脱走事件のために、亡くなったオーストラリア人4名の方々のお墓も隣接したところにあります。
カウラの収容所脱走事件で命を落とされた方々は偽名なので、実際のお名前はわかりません。南忠男さんというお名前は、南の地において日本にそして天皇に忠誠を果たす者という意味で付けられたとどこかで読んだことがありますが、この方は、豊島一さんという香川の兵隊さんであったことがわかっています。この方のことがわかったのは、中野不二男氏の克明な、そして、実に科学的、論理的に追跡、分析が行われた調査の結果で突き止められたものです。その調査の詳細は、「カウラの突撃ラッパー冷戦パイロットはなぜ死んだか」に綴られています。
豊島一(別名南忠男)さんというおひとかたの足跡を通して、戦争というできごとに運命を弄ばれた多くの若者達の使命感、悲壮感、絶望感、希望、生きる意味、遠く離れた故郷や家族への思慕などがよくわかります。
土屋康夫氏の「カウラの風」もまた、1944年にカウラで起こったことが読者には手に取るようによくわかるように書かれています。戦争に招集をかけられ捕虜になるまでの戦線での動き、戦場でのこと、捕虜になり、戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の文言と生きる、生きたい、愛する家族のもとに帰りたいという心の叫びとの狭間での懊悩。
戦争という極めて特殊な状態であったから、そして、戦陣訓という死を賭したものだから強く浮かび上がるものの、今に生きる私たちも、その社会的影響の大小はともあれ、一旦教えられたこと、信じ込んだことから逃れること、自由な発想を持つことがとても難しいことをよく知っています。それを正当化することも、そして、違うものを受け入れることがいかに難しいことか、ということも。
生徒たちは、出発前に見た2つの映画から、カウラの収容所で脱走に至るまでの経緯をよく理解し、映像に登場した人々をあたかも知っている人々かのように近くに感じるまでになったようです。
カウラの人々によっていつもきれいに清掃され、整備されている日本人墓地で、ひとつひとつの碑銘に書かれた名前を確かめながら、そして、知っている名前を探していました。墓地は、日本庭園から少し下ったところにあります。兵隊さんたちが、故郷を偲んで空を見上げれば、その先には、きれいな日本庭園が目に入ってくるようにと、大きな石がゴロゴロをころがっている岡の上に庭園の地が選ばれたと理解しています。これを私は、10年以上になりますが、いろいろな想いが錯綜し、毎年、涙無しに語ることができません。
献花して欲しいと入手した花束を宿舎に忘れるという私の不注意のために、素手でのお参りになりました。