まねのできない行為
投稿日:2013年9月29日
カウラの旅10
カウラには、私にとって特別な友人がいます。
Bruce Weir(ブルース ウイア)さんとおっしゃる方で、あしかけ10年くらいのおつきあいになりますでしょうか。捕虜収容所での脱走事件に関して、オーストラリアサイドからの話を聞かせてくださる方がないものだおうかと探している時にこの方の存在を知ったのがきっかけでした。
ブルースさんは、脱走があった翌日、16歳の誕生日を迎えました。
以下は、ブルースさんの身に起こった話です。
いつものように空気銃を持ってウサギ猟りに出ました。広い所有地には、灌木あり草原ありで、そこでのウサギ猟りはいつもとても楽しいものだったそうです。折れて倒れている大木の枝の下に、赤い服と長靴が見え、「誰かが倒れている。死んでいる」と思い、大急ぎでお父さんにそのことを伝えるために家まで戻りました。フルースさんは、前夜何が起こっていたかをまだ知りませんでした。知らせるために戻った家には、すでに数人の憲兵がいて、大急ぎで、ブルースさんが案内する木のところに向かいました。
その木の下には、誰もいないし、何もありませんでした。
ブルースさんは、作り話をする馬鹿者だ、とだいぶなじられたけれど、お父さんの友人である憲兵の一人が、「ブルースは、そんなことをする若者ではない。ブルースの言葉は信じていい。間違いなく、誰かがここにいたんだ」ということで、捜索が始まりました。ブルースさんは、その時に昨夜何が起こったかを知らされました。ブルースさんの家の羊の毛を刈る大きな倉庫のような建物には、その日の朝早く、その建物の中に3名の日本兵がいるのが発見されていました。鉄道沿いに逃げ、この建物にたどり着いたということなのですが、一人は、首を吊って自殺をしてしまっていたそうです。もう二人は、連絡を受けた憲兵さんたちに連れて行かれました。ブルースさんは、お父さんがそんな騒ぎをしていることを知らずに、ウサギ猟りに出ていたのです。
話を聞いてからの彼は、恐怖心に苛まされました。それから数日後、再度拘束され牛が引く木の車に乗せられた日本の兵隊さんたち数名が、収容所の方向に戻るために家の前の通りを通ることになりました。その兵隊さんたちを目にしたブルースさんのお母さんのMay(メイ)さんが、大勢の憲兵たちが続くその車を「ちょっと待って」と止めました。「この人たちは、何日も何も食べていないのでしょう?」と。
実際に、脱走以来何も食べていなかったようです。メイさんは、オーブンから焼きたてのスコーンを取り出し、お茶と一緒に疲れきった日本の兵隊さんたちに差し出しました。そして、兵隊さんたちはまた収容所に送られていきました。
それまで人を憎むということを知らなかったブルースさんは、この事件から、日本を、そして、日本人を極度に忌み嫌うようになりました。恐怖でいっぱいだったのです。
時代は、少しずつ変わり、カウラには、戦争という日本との悲劇から徐々に生れ出て来る和解や友情を示す建物が徐々に建設されるようになってきました。そして、毎年カウラを訪問する人々の数も増えてきました。
あの夜のできごとから40年経ったある日、「メイさんを訪ねてきた日本人がいる」という電話が市役所からあり、ブルースさんが応対することになりました。カワグチススムさんとおっしゃる方で、メイさんのスコーンを口にされた兵隊さんたちのお一人でした。メイさんはすでに亡き人で、直接にお礼が言えないことが残念だとカワグチさんはとても嘆かれたそうです。そのまま残っていた水差しをなんともなつかしそうに眺めていらしたということです。そして、「あの時のスコーンの味は、一生忘れることができない」と、メイさんの優しさを本当に感謝されていたということです。
カワグチさんのその感謝の気持ちは、フルースさんとお姉さんのマーガレットさんを日本に招待するという形で表されました。ブルースさんは、都合がつかないということで辞退されました。マーガレットさんは、日本で非常に好意的に迎えられ、全国放送のニュースで取り上げられたり、歴史家たちの集まりで話をされたり、カワグチさんのお家に招待されたり、行き先々のところで親切にされ、日本や日本人に対する印象を180度変えて戻ってみえました。ブルースさんの気持ちにも、そこで、大きな方向転換がありました。
戦争は、みんなが好んでしているのではないこと、敵対する国や人々のことは歪んだ情報ばかりで決して真実を伝えているものではないこと、敵意や誤解は無知から、そして、歪曲した情報で植え込まれてしまうものであること、人は、本当はみな平和を求めているのに、戦争は敵味方なく、両方の、それも一般の人々を犠牲するものなのだ、ということなどを悟り、そこで、真実を伝えよう、戦争はしてはいけないことを伝えようと思い立ちました。その時から、積極的に当時のことを話し始める決意をしたのです。
でも、ブルースさんのその決意を必ずしも好意的に受け入れる人々だけではなかったようです。メイさんの話をすると、「英雄気取りをするな。売国奴め」「そんな話は聞きたくない」とひどい言葉を投げつける人たちがカウラの住民の中にいました。戦争の傷を埋めようとする人。そのまま、憎み続ける人。カウラでなくても、どこの世界でも人々の受け止め方は、一様ではありません。ブルースさんは、いろいろな人々や団体に話をしたり、そして、記録の保存にも力を入れてみえました。私たちに年に一度、話をしてくださることもとても楽しみにしていてくださいました。
昨日のインドにいる卒業生からのお便りの中にあったのは、収容所跡地でお話を聞かせていただいている時に、ある人が近づいてきた時のことです。まったく、普通の一般人です。ブルースさんの話を中断し、彼に、何かを伝えました。ブルースさんは、OK. OK. わかったよ、とその人に立ち去っていただき、また、続きの話をされました。後で、その人は、ブルースさんがこういうことをすることを好まず、すぐに立ち去れと言いに来たのだということでした。
ブルースさんは、「彼の気持ちはとてもよくわかる。私も40年間同じ気持ちだったから。でも、それを抜け出すことが大事だと思うから、私はこれを続ける。彼にも、いつか、それがわかる時が来る。そして、それが’わかった時に心に平穏が訪れる」と言われました。とても印象に残る言葉でした。
ブルースさんがある時、「日本に行かなかったのは、都合が悪かったわけではなく、その当時は、まだ、自分の気持ちを整理することができないでいた。だから、私の代わりにマーガレットの友達を行かせてもらえるよう頼んだ」と言われたことがありました。ブルースさんにどうしても日本という国、そして、そこに住んでいる人々のことを知っていただきたく、「私たちと一緒に日本にいらっしゃいませんか」とお誘いしました。とても嬉しそうに、「考えてみる」と言われ、実現の運びになるかと思ったのですが、そのうちに体調を崩され、実現は徐々に遠のいてしまいました。
今年は、退院されたばかりで、お話を伺うことはもう可能ではなかったのですが、日本庭園にわずかの逢瀬のためにわざわざ農場から来てくださいました。
ブルースさんとメイさん。このお二人の生き方は、私のひとつの指針となっています。特に、メイさんの取られた行動は、人間の根本に触れることであるにもかかわらず、私には、決してまねることはできなかっただろう、その勇気は私には持てなかっただろうと思うものです。メイさんのことを知ってから、大事なことだと思う一方で、これをしたり言ったりしたら批判を受けるだろうなとか、これをしたり言ったりした後はどうなるのだろうかと戸惑ってしまう時には、メイさんだったらどうするだろうと、メイさんに登場してもらい、彼女から行動に出す勇気を分けてもらうのです。
写真は、 桜の木の下でお花見を楽しむオーストラリアの子供たちと、ブルースさんです。