自分を大事にする意味(3)

投稿日:2013年10月11日

自分との対面について、今日は触れてみます。

自分を大事にするということは観念としては至極当たり前のことなのですが、でも、その当たり前を掘り下げると、目に見える部分でさえも、実は、とても難しいことであるというのが、前回の2回でした。なぜ難しいかというと、常に、自分に問いかけ、自分の判断基準を突き詰め、情報を集め、決定し、実践するだけでなく、その結果に向き合うのも自分、責任を取るのも自分だからです。

それだけでも大変なのに、巷には、あまりにもたくさんの情報が溢れ、あまりにもたくさんの権威者や専門家がいて、余りにも、「頭」での判断を求められ、心が忘れ去られ、人間の本来の本能すらも否定されがちになってしまうからです。

それゆえに、人任せのほうがらくです。権威者、専門家が言っていることだから、政府が言っていることだから、TVで宣伝されたことだから、人が決めたことだから、で済みます。結果を人に批判されることもありません。自分が選んだのではないから。自分が責任取らなくていいから、自分を見つめる必要がありません。自分と直面することの難しさを味わう体験をしなくて済みます。努力も必死でする必要はありません。だって、自分が本気で選んだことではないから。

でも、もし、この姿勢を続け、その結果が自分が望むものと違ったら、どうするのでしょうか。怒りを覚える結果になっても、哀しい結果になっても、甘んじるのでしょうか。怒りや失望をどこかにぶつけるのでしょうか。それとも、それを自分の心の中にしまって、社会から遠ざかるのでしょうか。

壁にぶつかる(チャレンジして乗り越える試練ではなく、乗り越えられない障害)が多くなります。自分の意思で決定したという意識がないから、常に、人に流されている、ふりまさわされているという感じを取り除くことができなくなります。そして、決定軸が自分の外にあるから、とても不安定です。そうなると、自分が本当に自分の人生を生きている、創っているという生き甲斐や喜びや強さを感じる代わりに、落ち着かない不安な人生になってしまうかもしれません。

現代世界には、空虚、空っぽを感じる人々が急速に増えているという記事や本がたくさんあり、30代、40代であれば、物質のみを追い続け、人間関係を、あるいは、自分の精神生活と疎かにしてきた結果だと分析しています。

十代であれば、家庭内の孤独、学習に意味を見出していない、ピア・プレッシャー、コミュニティの中での自分の存在感の欠如などがあげられています。

その多くは、がむしゃらに勉強だけに励んだり、親子での交流体験が少なかったり、実際の生活体験がほとんどなかったり、一家の一人として家でのお手伝いをしたことがなかったり、テレビやPCのゲームや音楽や動画の世界だけにいたりして、積極的に自分の道作りに携わる機会がなかったことに起因するのだろうと、私は思っています。

否が応でも、自分と向き合うことになるのが留学です。

今までは、家族に大事に育てられ、お父さんとお母さんが決定してくださることやアドバイスに従うことで、安心して学校で勉強し、クラブや習い事に励み、友達と遊び、元気で幸せでいられました。時には、自分のしたいことを主張したり、自分の意見を展開したり、自分の自立を求めて、親御さんと衝突した人もいるでしょう。何も他に求める必要もなく、素直に従い、十分満足し、したいことをさせてもらっていた人もいるでしょう。自分の意思と反しても唯々諾々と従っていた人もいるでしょう。

どれも育っていく中で起きる流れです。留学では、突然に今まで支えてくださった、あるいは、目の上のたんこぶだった両親(すみません。笑)の存在が身近になくなります。今までだったら、「どうしたらいい?」「お母さんが決めて」「わからない」で済んでいたことが、決定は、全部自分の肩にかかってきます。毎日の中に、意識的に、あるいは、無意識であっても、決めなければならないことが山ほどあります。今まで培われてきた自分が上手にふるまってくれる場面もあれば、それまでの自分ではどうにも対処できない場面にも遭遇します。

ここで、初めて本格的に自分と対面することになります。その自分とどのように上手につきあっていくかが、その後の成長、そして、自分の道の確立に微妙に関係していきます。

 今日は、ここまでにします。

放課後、みんなで映画を観に行ってきます。それについては、また、明日に。

 

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