社会通念の変化

投稿日:2013年10月24日

 社会は、確実に大きく変わりつつあります。

変化は、日常のいろいろなところで感じられることですが、昨日は、たまたま関心を惹かれることが2つ重なりました。

ひとつは、ACT-Australian Capital Territory(州ではなく準州)で同性愛者の結婚を認める法案が議会を通ったことです。ACTというのは、首都キャンベラのあるところで、その首都圏を指します。ところが、それに対して、連邦政府からは、待て待て、その案は、憲法違反だから最高裁判所で争うべきだ、だから、誰もまだ本格的な準備はするな、というという通達が出ました。

オーストラリアは、国全体を治める連邦政府と、各州を治める州政府の二重構造になっています。そして、連邦政府の定める法が、国全体の法律となります。連邦議会でこの法案が可決されなければ、ACTでの可決は無効となります。

同性愛者の結婚を認めるべきという人々と、結婚はあくまでも男女間のものであるという人々との対立は、オーストラリアだけでなく、アメリカ、イギリスを始め多くの国々で議論が激しさを増してきています。

もうひとつは、「バイオ・チルドレン」と呼ばれる人々の存在です。「Insight」という公開討論の番組で、精子のドナーとなった人々、ドナーによって命を授かった人々(バイオ・チルドレン)、IVFなどの治療でドナーから精子を貰い受けることになった人々、バイオ・チルドレンを育てた人々など、いろいろな立場の人々が一堂に会し、それぞれの立場から見解を述べるのですが、同性愛者の人々にとっては、養子縁組以外の方法では、バイオ・チルドレンを授かることで初めて家族を持てることになる場合が多く、ドナーの存在がとても貴重であるという話でした。

ドナーは、友達夫婦にあげたというような始めから対象が限定されてわかっている場合もあれば、自分の子どもたち(中には、10回を越える場合も)の存在を知らない場合が多く、時には、30年も経ってから子どものほうから捜し求めたと連絡があって劇的な出会いを持ったケースもありました。ドナーになる理由の多くは、「家族が欲しいけれど、できない人々の役に立ちたいから」というのが多いという話でしたが、中には、「子育てをせずに、自分のDNAを残したいから」というのもあるとのこと。

バイオ・チルドレンがどのくらいいるかという数を把握する方法がなく、各種の機関からの情報を総合的に合わせると、オーストラリアには2万から6万人いると推定されるということでした。最低でも2万人という数のバイオ・チルドレンがいる、ということ。衝撃的な数字でした。

2万人ということは、バイオ・チルドレンは、ある特定の特別な例ではなく、もう社会の中に当たり前のこととして起こっているということを意味します。同性愛者の結婚が法で認められるようになれば、男女間の結婚、家庭という人生の根本にあるもの既成概念は崩壊し、男女間の結婚も同性同士の結婚も、そして、それからどんな家庭を作るかも、それぞれの人生のチョイスになるということです。

 さらに興味深いのは、討論の場では、物心付いた時から自分がドナーの提供で生まれたという事情を知っている人々はドナー制度に非常に好意的であり、自分の人生を肯定しているのに対し、青年になってからそのことを打ち明けられた人々は、その時点から人生に対する見方が変わってしまい、そこからがまた新たなスタートを切らなければならず、ドナー制度、あるいは、ドナーの提供者に対して必ずしも肯定的とは限らず、また、それまで打ち明けることのなかった育ての親に対しても裏切られてしまったような感情を抱くようになり関係が変わってしまい、困惑の中にあるケースとが対照的に浮き彫りになっていたことです。

人間というのは、人生の途中で起こったことに対しては、抵抗、疑問、否定、信じられない気持ち、信じたくない気持ちなどが起こるために受け入れることに困難が生じたりする一方で、人生そのものに対して見方が180度ひっくり返るほどの重大事に他者からは見えるものであっても、それが始めから意識の中に存在している環境であれば、無限に受け入れる能力があるのだということを感じました。

たまたま、こういうふたつのことを重ねて耳にしたので取り上げたのですが、こうしたこれまでの社会通念を覆すようなことが、日常生活の中でたくさん起こっています。私のような年齢になると、既存の観念、通念、そして、それが常識になってしまっているものがたくさんあるので、新しい観念はそれと比較します。比較して、衝撃を受けたり、疑問を抱いたり、困惑します。でも、今、十代の若者たちにとっては、既存ではなく、現在そこにある観念、通念で、それが当たり前のこととなります。当たり前のことには、疑問を抱く余地はありません。よほど、何か衝撃的なことが起こらない限り。

その一番いい例は、インターネットとスマートフォンと呼ばれるものです。自分の手の中に小さなPCがあることが、もう当たり前のこととなっています。それがないと、いろいろなことに支障が出てきます。学習にさえも。

電磁波が危険だという情報が頻繁にあっても、若者の難聴が増えていても、睡眠不足で不健康になっても、それを自分の身から外すことがとても難しくなってきています。もう、身体の一部として感じるようになっているのかもしれません。NHKのある番組で、こんなことが取り上げられました。

 http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/166140.html#more

ここに至ってしまっては、もう、too lateであり、強制する仕組みを作らない限り、変えることは不可能に近いのではないかと思われます。

留学中、子どもの年齢にもよりますが、夜の8時には、WiFiを切るというファミリーがあります。10時には、スマートフォンを置いてベッドルームに行きなさいというお家もあります。生徒の好きなようにさせるお家もあります。WiFiそのものがないお家もあります。

ICETのスマートフォンに関するスタンスは、10時には、おしまいにするというのが基本です。実践はとても難しいです。睡眠を確保する、目を休める、電磁波から遠ざかる、限られた時間に効率的に使用する、ということを可能とするためには、生徒の意思だけでは極めて難しいことがわかっていますので、ホストファミリーにできるだけの協力をお願いしています。

留学の最大の目的は、異文化の中での実体験を積むことです。言語の修得も、コミュニケーション能力の促進も、異文化理解も、文化交流も、実体験があってこそ大きく詰まれるものです。スマートフォンを覗き込んで得られるものは、情報であって、実体験ではありません。

いつでも24時間手元に持てることが当たり前になっている時に、当たり前でないとされた時にどんな抵抗があるか。。。

既に、そういう抵抗を体験されてみえる親御さんもおありかもしれませんね。

 インターネットに限らず、社会のあるゆる分野で、確実にすごいスピードで変わり行く社会、そして、価値観の対立に、私たちはどう向き合っていくのか。意識を拡大すればするほど、問題の範囲も拡大されていく、極めて難しい時代に世界は突入しています。それが起こるたびに、家庭で、学校で、友達の間で、話題とし、意識の中に入れていくことが大事です。

 

 

 

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