帰国に伴う環境の変化
投稿日:2013年12月1日
別離は、人との別れだけではありません。
別離には、環境の変化も含まれます。同じ場所にいて、誰かと別れた、自分がその人のもとを去った、という人との別れは、物理的な環境が変わらないのでその心理的な影響もたいしたことがないように見えるのですが、内面で、大きな変化が起こっていることがしばしばです。慣れ親しんでいる人の存在がないその環境は、すでに、それ以前とは違う環境です。それによって、周りの他の人々とのつきあい方だって違ってくるでしょう。自分を見る他の人々の視線にも以前とは違うものを感じることもありましょう。心の中での変化は、外に見えなくても、いろいろな葛藤や気持ちの上での動揺があり、心のバランスがくずれてしまうことは十分に起こりうることです。
留学生は、人々と別れるだけでなく、1年間慣れ親しんだ環境からも自分の身を離します。単に飛行機に乗って家に戻るだけの物理的には単純な、ただそれだけのことのように見えますが、精神的には、その後の人生に大きく影響する重みを秘めています。この移動は、極めて重要な意味を持っています。
「留学は帰国とともに始まる」と言っても言い過ぎではないほどに、帰国が大きな意味を持ちます。
留学の成果は、帰国してから問われると言ってもいいでしょう。でも、問題は、これが、生徒一人ではできず、生徒を取り囲む大人の人々の協力、理解、暖かく包む心、再出発のためのアドバイスなどが決定的に大事だということです。それが、その後の学習が、人生の歩みが、成功となるか否かの決め手となるのです。
留学中は、さまざまな体験をし、その体験から得られるものを徐々に自分の肉とし血として自分をリッチにしてきています。思う存分、自分を開放して、できるだけの体験に飛び込み、「自己」の覚醒と確立を奨励されてきています。習いたい英語に囲まれています。1年間暮らした人々との生活のリズムに慣れてきています。その人々の接触の仕方に慣れてきています。社会全体の風潮や文化の一部になってきています。
この状態を表すのに、こんなたとえを使ってみたいと思います。透明のガラスのびっくり箱を想像してみてください。生徒たちは、留学前の日本で、内側からガラスの向こうの世界を眺め、自分もあんな世界に飛び込んでみたいなと想像をふくらましていました。オーストラリアに来て、その箱のふたが開けられ、子どもたちは飛び出しました。始めからポーンと思い切りよく飛び出た子もいれば、徐々に徐々に少しずつ出てきた子もいます。外の世界を自由に泳ぎ回り、その間には、外側からガラス箱の中をのぞいてみる折もありました。日本のいいところもたくさん見えたし、家族に甘えていた自分の姿も見えたし、お父さんとお母さんに感謝して一所懸命尽くしている未来の自分の姿も見えました。
ガラスの箱の外では、自由に遊び、楽しみ、学習し、体験を重ね、新しく出会った多くの人々とその時間を共有しました。
さあ、戻る時間が来ましたよ、元のガラスの箱の中に戻りなさい、と言われているのが今です。抵抗があって当然です。迷いがあって当然です。不安があって当然です。自由を奪われると感じて当然です。
ここでいう自由は、自分の勝手にしていいという自由ではまったくありません。
ここで言う自由は、「自分が自分でいていい自由」「自分を思い切り試すことができる自由」「自分が誰であるかを求める自由」「自分のアイデンティティを探索する自由」「自分の未来を夢見る自由」「自立していく自分を創る自由」「試験の結果でジャッジされてしまわない自由」「いろいろな決断を自分でしてみる自由(もちろんそこに伴う責任が自分あることを自覚することになりますが)」という「自由」です。
新しい体験、精神的な自由、大きくした視野、日本にいては得られない情報や知識、様々な価値観との出会い、物の見方や考え方の違いの学習、自己の表現の仕方の変化、自分に対しての以前よりも深い理解、人々に対する理解、英語力、そうしたものを付加価値としてリッチに備えてきた子どもたちは、言ってみれば、1年前からは相当に違う人物になっていると言えます。
もっと言えば、彼ら自身が日本社会の中で、外国人のように感じることがたくさんあるということです。
もっと言えば、親子であっても、親戚であっても、先生と生徒の間柄であっても、まったく新しい関係として改めて互いに知り合うことが必要だということです。
留学をして変わった自分について語ろうとして作文を書いたら、「留学? だから? それがなんだっていうんだ。そんなもの偉そうに振り回すな!」と先生に言われ、書いた紙に赤線を一本ぐわっと引かれた体験を持つ卒業生がいます。心は裂けます。凍り付きます。縮こまります。自分がしてきた1年をまったく評価してもらえない?? 全面否定された?? それを理解しない大人がいるということに驚くのではなく、また、そんなふうにしか言えない心の狭さを汲み取るわけではなく、あるいは、生徒たちの若さと自信に圧倒されるからこそそんなふうに権威を振り回すのだとも考えず、むしろ逆に、自分が通った1年を否定し、そこにふたを閉じてしまうのです。なぜならば、彼らは、まだ「子ども」だからです。「権威」ある人にそんなふうに迫られたら、「権威」あるほうが偉いという罠に簡単に落ちてしまいます。
この先生は、もしかしたら、留学したことが大事ではなく、何を得たのか中身の問題だよ、ということを生徒に伝えたかったのかもしれません。そうであったら、生徒の気持ちを粉々にしてしまわず、経験を活かせる別の言い方があったのではないでしょうか。粉々になってしまったものは、取り返しがつかないのです。
そんな中で帰国後の日々になんとなく鬱々としたものを感じていると、今度は、「挨拶もできない」とまた別の先生からの批判が飛んできます。
「留学の体験をいろいろなことに上手に活かすんだぞ」「1年がんばったな。次の1年はもっと大変だから、さらにがんばれよ」と一言肯定されたら、子どもたちのその先の心意気は、まったく違うものとなります。
こんなひどい対応は絶対にあってはならないことなのですが、でも、実際に起こるのです。そうであれば、子どもたち自身がそうしたコメントにめげないようしっかりと心の準備をしていかなければなりません。彼らがこの1年のすばらしい体験に基づき、明るく良いエネルギーを保ち、志を大きく持つことができれば、そして、それを周りの大人達が上手に包んで活かすことができたら、受験も含めて、どんなにかリッチな環境が作れましょう、そして、どれだけすばらしい収穫が得られることでしょう。それを、そんなふうに否定してしまったら、ガラス箱の中にいるのはとても辛くなります。ガラスを通して見える外の世界、そして、そこにいた自分の1年を「夢」だったんだとカットしてしまう気持ちになるのも無理の無いことです。
帰ってくる子どもたちは、古巣に戻るのではありません。1年の間の成長により、もう古巣には戻れないのです。そのことは、帰国してみて初めてわかることです。
見た目にはすべてが同じ環境であっても中身は1年前とは大きく違う、日本の社会も1年前とは大きく違う、そして、何よりも戻って「ジャッジ」されるということを一番子どもたちが恐れているということをお知りおきいただき、どうぞ、暖かく迎え入れ、そして、9年分と言われるほどに中身を濃くしている子どもたちの理解を深めていただければ幸いです。その過程を通して、子どもたちは、自分がどれほどに成長したかを改めてしっかりと理解し、自覚を持つことができるでしょう。
人間は、自分が今していること、毎日の中に起こっていることに最も関心を向けます。そして、その話が一番おもしろいのです。だから、帰国してきたばかりの子どもたちの話に数日はよく耳を傾けても、じきに、「今、忙しいから、あとにして」「その話はもう聞いたじゃない」と話を聞くことさえも面倒になってしまい、子どもたちの体験話や成長した軌跡をたどることには関心が向けられなくなるという話も生徒たちからよく聞きます。そうなると、子どもたちは、1年で得た豊かさをシェアできるところがないように感じてしまうようになります。留学で得たものが、やはり活きなくなってしまいます。
帰国というのは、それだけ大変なことです。受け入れる方々にとられても、想像以上に大変なことであることを十分に認識していただき、「共有」を楽しみながら、そして、彼らのこの1年の体験が帰国してから見事に花開くことができるよう、自立を早めている生徒/お子さんと新たな絆を意識的に築いていかれますことを切に願います。
タイミングよく、卒業式を控えた今年の生徒たちに、卒業生からメッセージが届きました。この後に引き続きお送りします。彼の書いたものを読んでいただければ、私が言わんとしていることをよく理解していただけるのではないかと思います。生徒たちには、同じことを体験した卒業生からの言葉は、ビンビンと響くことでしょう。